| 1907年 |
4月27日 福島県河沼郡会津坂下町にて斎藤清作とその妻ルイの長男として生まれる。二人の姉がいた。 |
| 1911年 |
父の事業の失敗により家族とともに北海道夕張に移住する。 |
| 1914年 |
夕張登川尋常高等小学校尋常科に入学する。 |
| 1919年 |
母ルイ没。一時姫路の寺に預けられるが夕張に戻る。夕張登川尋常高等小学校高等科に入学する。 |
| 1921年 |
夕張登川尋常高等小学校高等科を卒業する。小樽市緑町の薬局に奉公に出る。この頃、童謡をつくり雑誌に投稿したり、イラストを描く。 |
| 1924年 |
北海道ガス株式会社小樽支社の見習い職工となる。「油絵」ということばを知り自ら模索する。 |
| 1925年 |
小樽の看板店「広告研究社」に転職。のち札幌の「宮田活動看板店」に移る。 |
| 1926年 |
父の命令で小樽に戻り、看板店を共同経営する。 |
| 1927年 |
独立し「看板のスズラン」を開業する。小樽を訪れていた日本画家田中針水にグワッシュ作品を携え弟子入りを志願する。 |
| 1929年 |
小樽の小学校図画教論成田玉泉にデッサンや油彩画を学ぶ。玉泉の紹介により棟方志功を知る。 |
| 1930年 |
東京見物のため友人入木勝次に同行して初めて上京する。 |
| 1931年 |
本格的に画家を目指すため看板店を知人に譲り再び上京する。宣伝広告の仕事をしながら絵の勉強をする。 |
| 1932年 |
第9回白日会展に油彩画《高円寺風景》を出品、初入選する。 |
| 1933年 |
第1回東光会展に油彩画を出品、初入選する。下宿先の上谷豊次の妹文と結婚。荏原に所帯を持ったのち上野広小路に転居する。 |
| 1935年 |
第10回国画会展に油彩画を出品、初入選する。 |
| 1936年 |
安井曾太郎の版画に触発され木版画の制作をはじめる。《子供座像》《少女》を第5回日本版画協会展に出品、初入選する。初の個展を小樽・今井呉服店で開催する。 |
| 1937年 |
離郷後初めて母の妹イノをたずねて会津を訪れる。以後たびたび会津を訪れることになる。この頃から《会津の冬》を描き始める。 |
| 1938年 |
第13回国画会展で油彩画・版画が落選、勉強不足を痛感する。数寄屋橋の研究所でクロッキーを学ぶ。小野忠重の誘いで造形版画協会に参加、第2回造形版画協会展に《郷の稚児》を出品する。 |
| 1939年 |
長女直子生まれる。第26回二科会展に「裸婦と少女」(油彩)を出品、初入選する。永瀬義郎『版画を作る人へ』を読み、モノタイプ版画を手掛ける。新宿の月光荘クロッキー研究所に通う。 |
| 1940年 |
この頃、美術誌でゴーギャン、ムンク、ルドンの作品を知り関心を寄せる。 |
| 1942年 |
版画による初の個展を銀座・鳩居堂画廊で開催「会津の冬」などを発表する。友人入木勝次の誘いで中国を旅行、北京でスケッチを行う。 |
| 1943年 |
日本版画奉公会が結成され理事になるが同年中に辞任する。 |
| 1944年 |
朝日新聞社に入社『週刊朝日』の表紙やカット等を手掛ける。恩地孝四郎と知り合い一木会に参加する。第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。 |
| 1945年 |
空襲を避け家族を会津に疎開させる。戦争終結により雑司ヶ谷の上谷家に同居する。6月頃従軍画家として朝鮮半島の釜山や仏国寺を訪れる。恩地孝四郎の誘いで『東京回顧図絵』(高見沢版画研究所)のために《浅草風景》を制作する。 |
| 1946年 |
第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。 |
| 1947年 |
斎藤清版画展(東和工芸ギャラリー)開催。駐日アメリカ人の間で知られるようになる。創刊された『国立博物館ニュース』の題字をデザインする。 |
| 1948年 |
東京アーミー・エデュケーション・センター主催の「Modern Print Exhibition」(日本橋三越)や、有楽町のアーニー・パイル劇場で開催された版画展に出品する。練馬区東大泉に転居する。 |
| 1949年 |
第1回サロン・ド・プランタン展に《ミルク》を出品、一等賞を受賞。 |
| 1951年 |
第1回サンパウロ・ビエンナーレに《凝視(花)》を出品、駒井哲郎《束の間の幻影》とともに在サンパウロ日本人賞を受賞する。 |
| 1954年 |
朝日新聞社を退社。水彩画家・春日部たすくを通じ福島県の美術界との交流が始まる。板橋区茂呂町に転居。 |
| 1956年 |
アメリカ国務省・アジア文化財団の招きでアメリカ、メキシコを訪問、各地の大学・美術館で実技指導や個展を開催。また画家のフレデリック・オハラからリトグラフを学ぶ。この頃、画家のグレン・アルプスと知り合う。 |
| 1957年 |
第2回ユーゴスラヴィア・グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に《館》を出品、受賞。アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞。 |
| 1958年 |
この頃、肩を痛め、梅原勇から弟子の大津一幸を見習いとして紹介される。以降、徐々に摺りを任せるようになる。 |
| 1959年 |
アメリカ人実業家のC・V・スターに招待されて訪仏、11-12月の間パリに滞在する。 |
| 1962年 |
C・V・スターがパトロンとなり、二度目の渡米、各地で木版画の個展を開催するほか、ワシントン大学で木版画を教える。また同大学で教鞭を取っていたグレン・アルプスからコラグラフを学ぶ。日本版画協会を退会する。 |
| 1963年 |
三島町出身の日本画家・酒井三良と春日部たすくとともに朴人会展を開催、水墨画13点を出品。墨画に興味を感じる。 |
| 1964年 |
ハワイ大学芸術祭の招きでハワイを訪れ6週間滞在。斎藤清版画展(ホノルル美術館)が開催され木版画及びコラグラフ作品をホノルル美術館に寄贈。 |
| 1965年 |
斎藤清チャリティー版画展開催のためオーストラリアを訪れ国立美術研究所で木版画実技を公開。帰途タヒチに寄る。 |
| 1967年 |
『TIME』誌の表紙を手掛け《佐藤栄作首相肖像》が2月10日号に掲載。インド文化省主催による斎藤清版画展の開催のためインドを訪問。柳津町に住むいとこの渡部徳一・ヨシノ夫妻と出会い以降雪を描きに毎年柳津を訪れる。 |
| 1969年 |
アメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。 |
| 1970年 |
東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。大韓民国を訪問。鎌倉市西御門に転居(のち長谷に移る)。 |
| 1976年 |
福島県の県外在住者知事表彰。柳津町名誉町民になる。 |
| 1977年 |
『TIME』誌の表紙を手掛け、《福田赳夫首相肖像》が3月28日号に掲載。チェコスロヴァキア国立美術館主催の斎藤清展開催のためプラハを訪れる。 |
| 1981年 |
秋の叙勲で勲四等瑞宝章を受章。「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。 |
| 1983年 |
《会津の冬(51)山口》が優秀美術作品として文化庁買上となる。神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。 |
| 1987年 |
妻 文の健康状態が悪化、鎌倉から柳津町に移り住む。 |
| 1988年 |
アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」を開催。 |
| 1991年 |
妻 文、会津若松市の病院で逝去。「斎藤清-その人と芸術」展をいわき市美術館で開催。 |
| 1992年 |
福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展を開催。 |
| 1995年 |
平成7年度文化功労者に選出。 |
| 1997年 |
やないづ町立斎藤清美術館開館。11月14日肺炎のため会津若松市内の病院で逝去。(享年90歳)。 |