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猪熊弦一郎(INOKUMA Genichiro)作品一覧
香川県出身:1902-1993
猪熊弦一郎 略歴詳細
1902年 |
12月14日 香川県高松市に生まれて、丸亀市に転居。丸亀東幼稚園、城北小学校に通う。本名玄一郎。 |
1921年 |
旧制丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)卒業。上京し、本郷洋画研究所に通う。 |
1922年 |
東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学し、藤島武二に師事する。同期生に牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳、小磯良平、山口長男、等。のちに同学校を中退。 |
1926年 |
5月片岡文子と結婚、洗足にアトリエを構える。10月「婦人像」で帝展初入選を果たす。以後、第10回、第14回で特選となるなどし、帝展無鑑査となる。 |
1930年 |
光風会会友となる。この頃より「弦一郎」と号す。 |
1931年 |
2月に光風会会員となる。7月に田園調布にアトリエを移す。 |
1936年 |
帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和、伊勢正義、内田巖、佐藤敬、三田康、中西利雄、鈴木誠らと新制作派協会を設立する。 |
1938年 |
5月に渡欧、主としてフランスに滞在し、イタリア、スイスなどに旅行する。アンリ・マティスの指導を受ける。 |
1939年 |
藤田嗣治と共にアトリエを構えるなど渡仏中の日本人画家と交友。 |
1940年 |
第二次世界大戦が勃発し、最後の避難船となった白山丸で藤田嗣治、荻須高徳らと帰国する。 |
1941年 |
中国に文化視察として派遣される。 |
1942年 |
フィリッピン戦線に寺内萬治郎と共に従軍画家として派遣される。 |
1943年 |
小磯良平とビルマに派遣される。 |
1944年 |
陸軍美術展で戦争画の「◯◯方面鉄道建設」を発表。終戦後、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたる。 |
1948年 |
「小説新潮」の表紙絵を描く(1987年まで)。 |
1950年 |
白地に赤で有名な三越の包装紙「華ひらく」のデザインを行う。 |
1951年 |
上野駅に壁画「自由」を完成。また、慶應義塾大学大学ホールの壁画「デモクラシー」と名古屋丸栄ホテルホール壁画「愛の誕生」で、第2回毎日美術賞を受賞[7]する。 |
1955年 |
再度パリでの勉学を目指し日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれそのまま留まる。この時期から画風は抽象となり、マーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深める。 |
1973年 |
日本に一時帰国中脳血栓で倒れる。 |
1975年 |
ニューヨークのアトリエを引き払い、冬の間をハワイで、その他の季節は東京で制作するようになる。 |
1980年 |
勲三等瑞宝章を受章する。 |
1989年 |
丸亀市へ作品1000点を寄贈。 |
1991年 |
丸亀市名誉市民。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館開館。 |
1992年 |
所有するすべての作品などを丸亀市に寄贈する趣旨の文書提出。以降、順次丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に搬入。 |
1993年 |
「祝90祭猪熊弦一郎展」で第34回毎日芸術賞を受賞する。5月17日逝去。享年90歳。 |
備考 |
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