竹内栖鳳(たけうちせいほう)作品を高価買取りしております。
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竹内栖鳳(TAKEUCHI Seiho)作品一覧
京都府出身:1864-1942
竹内栖鳳 略歴詳細
1864年 |
12月20日京都府京都市中京区御池通油小路の川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれる。幼名は恒吉。 |
1877年 |
四条派の土田英林に絵を習い始める。 |
1881年 |
17歳の時に四条派の名手として知られた円山・四条派の幸野楳嶺の私塾へ正式に入門し、「棲鳳」の雅号(画家としての名前)をもらう。(霞中庵の号もある) |
1882年 |
私塾の工芸長となり、「楳嶺四天王」(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名を指す)の筆頭と呼ばれるようになる。 |
1884年 |
1884年2月には、京都府画学校の北宗画家に入学。 |
1885年 |
幸野楳嶺と共に関東・北越巡錫の旅する。 |
1887年 |
2月京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。8月に西陣織物を営む高山家の長女奈美と結婚。これを機に絵師として独立する。 |
1889年 |
1月京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆく。2月には髙島屋意匠部に務める。新古美術会や日本絵画協会などに出品する。 |
1891年 |
山元春挙、菊池芳文らと青年画家懇親会を興す。 |
1893年 |
シカゴ万博に出品。 |
1899年 |
京都市立美術工芸学校の教諭に推挙。 |
1900年 |
農商務省と京都市から支援を受け、パリ万博視察の為に8月1日神戸を出帆、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受ける。視察をきっかけとして7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。 |
1901年 |
2月25日帰国後、西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改める。それまでの日本には見られなかったようなライオンや西洋風景を描き、大きな話題となる。 |
1902年 |
「大獅子図(藤田美術館)」を制作。 |
1903年 |
「羅馬之図(海の見える杜美術館)」を制作。 |
1907年 |
文展開設とともに審査員となり、以後1918年(大正7年)まで歴任する。のち、帝展(現日展)審査員にもなる。「雨霽(東京国立近代美術館)」を制作。 |
1908年 |
「飼われたる猿と兎(東京国立近代美術館)」を制作。 |
1909年 |
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任し、1924年(大正13年)まで務める。「アレ夕立に(高島屋史料館)」を制作。 |
1913年 |
12月18日に「帝室技芸員」に推挙。「絵になる最初(京都市美術館)《重要文化財》」「群鵜(霞中庵 竹内栖鳳記念館)」を制作。 |
1919年 |
帝国美術院会員となる。 |
1920年 |
日本画の源流である中国絵画を育んだ自然や風物を見るため中国を旅行。翌21年にも中国を訪れる。 |
1924年 |
11月フランスのレジオン・ドヌール勲章(シュヴァリエ)受章。「班猫(山種美術館)《重要文化財》」を制作。 |
1925年 |
勲五等に叙せられ、瑞宝賞を受賞。 |
1927年 |
「秋興(京都国立近代美術館)」を制作。 |
1928年 |
「薫風稚雀・寒汀白鷺(三の丸尚蔵館)」を制作。 |
1930年 |
レジオン・ドヌール勲章(オフィシエ)を受賞。 |
1931年 |
ハンガリー最高美術賞およびドイツのゲーテ名誉賞受賞。 |
1937年 |
横山大観らとともに第1回文化勲章受章。 |
1942年 |
8月23日神奈川県足柄下郡湯河原町の天野屋旅館別荘で病気療養中の折、肺炎のため逝去。享年77歳 |
備考 |
【主要な弟子】
上村松園、西村五雲、伊藤小坡、西山翠嶂、三木翠山、石崎光瑤、土田麦僊、橋本関雪、小野竹喬、山下摩起、池田遙邨、徳岡神泉、山口華楊 |
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