作家名 | 須田寿 SUDA Hisashi |
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タイトル | 鳩と壷 |
技法 | キャンバスに油彩 Oil on canvas |
サイズ | 8号 |
体裁 | 額装 |
制作年 | |
レゾネ | |
ED. | |
サイン | サイン有 |
鑑定証書 | 鑑定書無し |
備考 | 裏書有 |
販売価格 | 売却済み |
須田寿「鳩と壷」油彩作品の買取価格査定
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須田寿略歴詳細
1906年 | 5月25日東京都日本橋本町の門井守次郎四男として生まれる。 |
1913年 | 九段、精華小学校に入学。遠縁に日本画家下村観山がおり、横浜のアトリエにしばしば遊びに行き、日本画家の生活にふれる。 |
1919年 | 成蹊中学校(当時は池袋)に入学、五年修了後卒業期を控え画家を志望、日本画家志望者は周囲に多いため、洋画(油絵)を勉強しようとする。 |
1923年 | 関東大震災にて実家焼失、住居を転々とする。中学校を卒業後、東京美術学校(現・芸大)洋画科を受験して不合格。 |
1924年 | 川端画学校(研究所)にデッサン(石膏)修業したが、翌年も不合格。 |
1926年 | 東京美術学校洋画科に入学。長原孝太郎先生に指導を受ける。 |
1927年 | 美校二年、学期末休暇を利用して友人と中国を旅行し、北京に二ヶ月滞在、国民党の北伐に際し、北京居留民引き揚げと共に帰国させられる。 |
1928年 | 美校三年、和田教室に編入され、和田英作先生の指導を受ける。 |
1930年 | 第11回帝展に「裸婦」初入選。 |
1931年 | 親戚須田家の養子となり、美術学校卒業後、世田谷宮坂にアトリエを建てる。第12回帝展に「裸婦」入選。 |
1932年 | 篠原清子と結婚、急性腹膜炎になり手術、一命をとりとめる。その年の出品とりやめる。 |
1933年 | 第14回帝展に「三人」入選。 |
1934年 | この頃より阿以田治修氏に師事し、第1回グループ展を資生堂画廊にて開く。大貫松三、榎戸庄衛他五人展。第15回帝展に「庭園小景」入選。 |
1935年 | 帝展は師和田英作が主軸になって行った。世に言う松田改組失敗にて二部会生れ、出品に迷ったが、結局「庭前」出品。木村荘八に認められる。 |
1936年 | 当時官展に新鋭グループと称し、立陣会が出来(石川滋彦・井出宣通・川端実等12名)、その第2回から参加、青樹社(銀座)にて毎年発表。新文展(二部会解消)に「蔭に憩う」出品。 |
1937年 | この頃より作風が変わり、翌年の「水辺」は官展風には問題ありと、立陣会の新傾向の絵は皆落選する。その後も傾向変えず落選続く。 |
1939年 | 第3回文展に「親爺と子ども」がやっと入選。 |
1940年 | この頃、官展内に無所属であった審査員級の人達によって創元会創立(中野和高・鈴木千久馬・佐竹徳・大久保作次郎・安宅安五郎・阿以田治修等10名)。第11回展に参加、「裏庭」出品受賞。 |
1941年 | 創元会も第1回展にて創立会員内の確執で解散。第二次創元会再興のため、事務所の運営に当たる。 |
1942年 | 第2回創元会を開催(上野美術協会、現上野の森美術館)、「夏童」出品。 |
1943年 | この頃より太平洋戦争苛烈になり、文展は休催。創元会は都美術館に移り、第3回創元会に「室内裸童」出品。 |
1944年 | 戦時中特別文展に「群鹿」出品。第4回創元会に「白容」出品。この頃よりモチーフも傾向も制約される。空襲盛んになり、福島県磐城石川に疎開する。 |
1945年 | 終戦。戦禍をまぬがれた世田谷の家に還る。 |
1946年 | 戦後すぐに創元会開かれ、また第1回日展に「暖日」出品。 |
1947年 | 戦後の画壇も活発になり、4月現代日本美術展(東京都主催)に「群鶏」出品。6月第1回美術家連合展(毎日新聞社主催)に「牛」出品。10月第2回日展に「秋童」出品。 |
1948年 | 第7回創元会に「風景」出品。5月三越本店にて第1回個展開催。6月第2回美術家連合展に「静林」出品。第3回日展に「家鴨」出品、特選になる。 |
1949年 | この頃より日展のあり方に同調しがたく、かねてからの同志7名(牛島憲之・飯島一次・大貫松三・榎戸庄衛・円城寺昇・山下大五郎等)にて創元会を脱会、同時に今後日展(官展)に出品せず、公募展に対する批判をもってグループ形式の会「立軌会」を創立。 |
1950年 | 第1回秀作美術展(朝日新聞社開催)に前年度の立軌展出品作「卓上静物」が選ばれる。4月六窓会創立(美校昭和六年卒)、メンバーは日本画-東山魁夷・橋本明治・加藤栄三・山田申吾、油絵-佐藤敬・伊勢正義・大貫松三・須田寿、彫刻-大須賀力・黒田嘉治・長沼孝三・野々村一男、工芸-内藤四郎、建築-吉村順三、高島屋美術部にて第1回展開催。 |
1951年 | 第2回秀作美術展に第2回立軌展出品作「裸婦」選ばれる。5月三越本店、第2回個展に「卓上静物」を出品。 |
1952年 | 第3回秀作美術展に前年の個展出品作「卓上静物」が選ばれる。6月白木屋(東急日本橋店)に六青会を創る(麻生三郎・牛島憲之・中谷泰・中田好江・吉岡憲・須田寿)。7月第1回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「鳥をだく少年」「少女の像」を出品。 |
1953年 | 3月資生堂画廊にて個展「卓上静物」等を出品。4月六窓会は展覧会終了後解散。第2回日本国際美術展に「静物」他1点を出品。 |
1954年 | 六青会は三回やり、白木屋改築のため休止。日本国際美術展は隔年となり、この年は第1回現代日本美術展(毎日新聞社主催)を行う。「卓上静物」「厨房静物」を出品。9月渡欧、フランス・イタリア・スペイン・ベルギー・オランダなどを巡遊。 |
1955年 | 第3回日本国際美術展に帰国後作品「追憶」「庭園」を出品。第7回立軌展に「牛を売る」を出品。 |
1956年 | 立軌会はこの年より会員増強のため一般公募でなく、会員公募を行い5名増員する。第7回秀作美術展に前年の立軌展出品作「牛を売る」が選ばれる。 |
1957年 | 武蔵野美術学校に講師として招聘される。 |
1958年 | 新宿風月堂にて個展。栃木県鹿沼市庁舎ロビーに壁画制作、大谷石壁に線彫りにて行う。第10回立軌展に「栃木の牛」を出品 |
1959年 | 第11回立軌展に「壺のある風景」その他を出品。神奈川県伊東一碧湖国際ホテルロビーに壁画制作。 |
1960年 | 第12回立軌展に「走る牛」他を出品。 |
1962年 | 北海道で第1回個展を札幌三条会館で行い、北国の風物に接して大いに制作の意欲わく。 |
1963年 | 北九州の装飾古墳を見学して、大いに感銘し、第15回立軌展には古墳シリーズ的作品を出品。 |
1964年 | 第2回札幌展を行うと共に北の風土から制作、「北の人」「北の海」等の作品を立軌会に発表。10月資生堂個展には「タルキニアの牛」等を出品。 |
1965年 | 武蔵野美術大学専任教授になる。 |
1968年 | 立軌会は創立以来の三越会場が手狭になったため、西銀座松田ビルに新設のセントラル美術館に移り、二十周年記念展を開催、「湿原」他を出品。 |
1969年 | 1月第21回立軌展に「追憶」「鶏をだく少年」を出品。同時にギャラリーオカベにて淡彩・デッサン展を開催する。この頃学園紛争にて学校一時閉鎖事件あり。 |
1970年 | 二年続いたセントラル美術館閉鎖のため、三越銀座店にて第22回立軌展を開き、「風」一点を出品。5月日動サロンにて個展。九叢会創立(会員-角浩・成井弘・南政善等九名)丸の内大丸にて開催。ギャラリーオカベにて第2回デッサン展「京都シリーズ」を行う。 |
1971年 | 第23回立軌展に「雲」「丘」2点を出品。再渡欧。 |
1972年 | 銀座に東京セントラル美術館(彩壺堂経営)が誕生したので、ここを会場と決め、第24回立軌展開催「壺のある風景」他に点を出品。5月ヨーロッパ旅行に約1ヶ月行き、古代ヨーロッパ美術を研究する。 |
1973年 | 2月第25回立軌展に「追想」「古都」を出品。3月ギリシャ方面旅行にて三年続けてギリシャ古代文明を探る。7月セントラル・サロンにて個展、ギリシャ取材の発表をする。 |
1974年 | 第26回立軌展に「クレタの牛」「エーゲ海」等を出品。東京セントラル美術館の「上野の森八十五周年展」に前年度の「追想」「野の花」を出品。5月ジェイコ画廊(渋谷)に旧作41点出陳。 |
1975年 | 第27回立軌展に「横たわる人」「鳥」を出品。3月フジテレビのテレビ美術館、ミュージックギャラリーにて作品紹介される。11月ギャラリーミキモトにて「神々の山」他20点出陳。 |
1976年 | 第28回立軌展に「ある風景」「草原にて」を出品。いずれも古代ギリシャより発想。12月武蔵野美術大学資料図書館にて須田寿教授作品展開催、自選作40点出陳。 |
1977年 | 第29回立軌展に「ローマの影」「廃墟と松」を出品。11月東京セントラル美術館に須田寿自選展開催、戦後の作品から85点出陳する。 |
1978年 | 立軌会三十周年展を開催、創立よりの会の経過を回顧する。「太陽のある村」「耕土」「曠野にたつ」を出品。前年の自選展出品作「白い家」が文化庁買上となる。武蔵野美術大学退任、名誉教授になる。5月ギャラリーミキモトにて森芳雄と二人展開催「遺跡にたつ」他を出品。10月立軌四人展(フジカワ画廊主催)第1回彩交会(牛島・飯島・山下・須田)開催。 |
1979年 | 第31回立軌展に「寒村」他を出品。3月第1回日本秀作美術展(読売新聞社主催)に前年度の「太陽のある村」が選出される。11月フジカワ画廊主催第1回個展開催、「石の家」「やどり木のある村」他19点を出品。 |
1980年 | 第32回立軌展に「ローマの女」等を出品。栃木県推挙にて紺授褒賞を受ける。第2回日本秀作美術展に前年度の立軌展出品作「寒村」が選出される。5月ギリシャ・トルコ方面に旅行。9月緑蔭小舎(成城・柳田邸)にて淡彩・デッサン・油小品等の小展覧会を開く。11月日本テレビ「美の世界」に登場、制作を放映する。 |
1981年 | 第33回立軌展に「帰郷」「平原」を出品、いずれもトルコ方面取材。 |
1982年 | 第34回立軌展に「門」「石」を出品。第4回日本秀作美術展に前年度の「帰郷」が選出される。4月日本経済新聞社より「須田寿画集」出版。5月日本経済新聞社主催により日本橋高島屋にて「須田博展」を開催。戦後からの作品51点を自選して発表する。第6回長谷川仁記念賞受賞。 |
1985年 | 第7回日本秀作美術展に「家族」を出品し、この作品により芸術選奨文部大臣賞受賞。 |
1993年 | 4月世田谷美術館で「須田寿展」を開催。 |
2001年 | 中村彝賞受賞。 |
2005年 | 1月肺炎のため東京都世田谷区の病院で逝去(享年98歳)。 |
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